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村上春樹と英語訳『日本文学短編集』(2018)

Updated: Sep 4, 2021

「読書とは。極めて個人的な、独りよがりとさえ言うことができる活動である。」村上春樹


“Reading is, of course, a supremely personal—even selfish—activity.” by Haruki Murakami



ペンギン・ブックス出版の古典文学シリーズに収録された『日本文学短編集』(2018)に、村上春樹氏が序文を寄せています。村上文学の翻訳者として知られる、ハーヴァード大学名誉教授Jay Rubin(ジェイ・ルビン)氏が編集者として選集した英語の翻訳本です。


これまで日本文学の選集というと、夏目漱石、森鴎外や芥川龍之介などの文豪から川端康成を経て三島由紀夫まで、つまり20世紀の初めから1960年代位までを収めていたのが、全35篇から成るルビン編では、海外でも人気のある村上春樹、吉本ばなな、小川洋子を経て、現代作家の柴田元幸や川上未映子までをカヴァーしています。他に、阪神・淡路大震災や東日本大震災を基にした短編なども含め、近現代日本の様々な側面を包括的に捉えようとしている点が特徴的です。


序文において村上氏は、ジャズ音楽のドラマーとして有名なBuddy Rich(バディー・リッチ)が、病院に担ぎ込まれた際にアレルギーはないかと聞かれ、「カントリー・ミュージック」と苦手な音楽ジャンルを挙げたことになぞらえ、以下のように語っています。


(村上氏)「僕の唯一のアレルギーと言えば、それは所謂『私小説』と呼ばれる、20世紀に入って日本で主流となった、ある種の自伝的な形式の近代文学である。実のところ、僕は10代の頃から20代前半に掛けて、日本文学というものをほとんど読まなかった。かなり長いこと、いくつかの例外を除けば、近代から現代の日本文学は単につまらない、と思っていたのだ。そう思うようになったことの要因はたくさんあるのだが、一番の問題は、学校教育で押し付けられた小説や物語が、かなりひどかったということだ。」(私訳)


と、近代日本文学のある種の傾向に対する拒絶反応について、述べています。読書とは個人的な活動であり、好き嫌いによって読む本を選ぶのだから、単純に何が正しくて何が悪いとは言えない、と「村上節」が続きます。


一方、バランスのよい食事という観点から、好きな物ばかり選んでいては偏りができるため、小説家となった30代から日本文学を多読したと告白しています。ただし、先駆者の作品を読むことで村上氏自身の執筆スタイルが出来上がったのかというと、そうではない。自分の書き方は自分で模索し、結果として日本文学を背負って立つという重荷を背負わなかったことが、おそらくよかったのではないか、ということです。


さて、村上氏が日本文学作家から「書き方」を学ばなかった、という点が興味深いです。もっとも、村上文学にはアメリカ文学の影響があるとしばしば評され、翻訳なども多数手がけていることから、そこに源流があるのだろうと推察でき、驚きには値しませんが。私が面白いと思ったのは、村上氏が他の作家による作品を避けていた訳ではなく、‘I have been narrowly focused, heart and soul, on doing what I want to do’ (何より自分が書きたいと思うことに、心底、精魂込めて、脇目も振らずに集中してきた)からである、と述べている点です。なるほど村上氏が多作なのは、ひたすら執筆に打ち込んで来た結果でしょう。そして、彼の一種独特の文体も集中作業の結果として編み出した独自の手法なのだ、と思いました。


どこかで聞いたことですが村上氏の文章は英語を意識して書いている、と。確かに彼の作品には、横文字やカタカナ、外国の地名や人名、概念などが沢山盛り込まれていて、欧米文学や文化の影響が色濃く出ています。冒頭に引用した一節にも見られるとおり、彼はよくダッシュや句読点を用いて説明的な語句を挿入していて(—even selfish—という部分)、これは英語でよく用いられる修辞法の一つです。


でも、読んで見ると英語の文体とはちょっと違う。英語という言語は短く簡潔に。ちょっとでも長くなったり、まどろっこしくなると、論がずれていってしまいます。村上氏の場合、和文では省略することが多い主語を明確にするという点では英語的。一方、議論をこねくり回し、くどくどと長広舌をふるうのも特徴で、これは英語の文章とはかなり異なります。


例えば「私小説」に関する村上氏のコメント。これは村上氏が書いた原稿をルビン氏が英語に訳し、さらに私が(村上氏の文体を念頭に)日本語に戻しています。(引用の前後の文章も含めてですが)日本語に置き換えると、読書量に対する自虐的な告白は、戦後の学校教育に対する皮肉とも読み解くことができます。そして、くどくどとした弁解的な語りは、実は自負心の裏返しであると分かるし、それを漫才のボケと突っ込みのような、読者との距離感を保った対話にしている。


村上氏の語りのツボを押さえてから、すっかり魅力に嵌ってしまったのですが、英語圏の読者はどうなのでしょうか。今後、ルビン氏が訳した村上作品を読んで考えてみたいと思います。


(文責©H.Shimazaki)

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