ロシア語翻訳者の友人と一緒に、米国ワシントン(州立)大学英文科の翻訳研究グループ(英語ではHub)が主催する年次大会(Translation Studies Hub Colloquium: The Lives and Labors of Professional Translators and Interpreters)に参加してきました。大学キャンパスはシアトルにありますが、Zoom会議のお蔭でコミュニティが広がって嬉しいところです。参加者は34人で、そのうち発表者が4人、司会者、そして幹事を務める英文科の教員という内訳でした。(発表者の専門分野など、詳細は上記のリンク先☝をご覧ください。)
ワシントン大学の英文科では、英米文学やライティングコースに力を入れているようですが、今後、翻訳者育成のコースを立ち上げるために、研究グループを発足させたとのことです。翻訳・通訳という分野は、社会やビジネスと密接に関わるため、昨年に続いてプロの翻訳・通訳者を呼んで年次大会が開かれた、という経緯です。現役で活動している方々を招いての講演会は、今ある挑戦や達成感がひしひしと聴衆に伝わり、とても刺激的です。
ひと昔前のことになりますが、私が英文科に入学したての頃、英語同時通訳で活躍される鶴田知佳子さんが、同僚の方と一緒に講演にいらっしゃる、という似たような経験をしました。NHK衛星放送やCNNなどの同時通訳で有名な鶴田氏ですが、当時、企業などの国際会議もたくさん手掛けていらして、ご経験を話された後、同通の訓練方法などをご教示頂きました。1990年代までは、日本で同通ができる方の数が今よりはるかに少なかったはずですが、それにしても鶴田さんが英語とフランス語、同僚の方がイタリア語とドイツ語と、二か国語ずつ、合計四か国語をカバーした会議もあった、という逸話に驚かされた記憶があります。
トップクラスの通訳者でさえ、専門性が高いために知らない語彙というのが沢山あるようです。例えば、漁業組合の会議であれば、いろいろな種類の魚の名前やら、缶詰などのタイプなど。ひとくくりに貿易関連の国際会議と言っても、特定の分野に必須の用語が存在します。鶴田氏の場合、仕事を引き受けたら会議前に1週間位ホテルに滞在し、部屋にこもって単語をひたすら頭に詰め込む作業をされたそうです。同通の際に、知らない単語は聴き取れないし訳せないので、インプットが大事ということでした。
国際化が進む昨今、二か国語あるいはそれ以上の言語を母国語とする日本人が増えてきました。世界規模で見ても、英語を共通語として使いこなす人がますます増えるばかり。一方、急激なIT化によって、機械翻訳も目覚ましい進化を遂げています。オンラインで無料で使える辞書や翻訳ウェブサイトがたくさんあり、そもそも単語や文章をいちいち入力しなくても、GoogleやYouTubeが翻訳してくれる時代です。他にも、旅行の際に手軽に持ち歩きの出来る、小型の通訳機が売り出されています。一人前の翻訳者や通訳者の育成に掛かる時間と費用などを考えると、自動翻訳や通訳の機械は、誰でも気軽に使える便利なツールです。生身の人間と機械に埋め込まれた人工知能との戦い。今後、この分野では需要と供給を保っていくことができるのでしょうか。
今回の大会は、そんな疑問に答えてくれるような会となりました。まず初めに、発表者4人から、翻訳あるいは通訳者となった経緯についての説明と、現在の仕事内容についての紹介がありました。アメリカですので、英語と他言語間での翻訳・通訳に従事している点では共通するものの、1人は英語のネイティヴ(スペイン語の通訳)、他3人はトルコ語、クロアチア語、そしてフィンランド語を母国語としていました。ここで言えることは、彼らが必ずしも多言語話者としての環境に生まれ育ったのではなく、英語(あるいはスペイン語)を外国語として学び、習得していたことです。他の言語への尽きることのない興味と学習の延長線上に、翻訳あるいは通訳という道があった、という点は、私も人生の大半を様々な形での英語学習に費やしているため、納得できます。
次に、発表者のうち3人までが翻訳から始め、通訳業に移っていったということでした。残りの1人、Mia Spangenberg氏は、フィンランド語とドイツ語の文芸書の英語翻訳を専門としていらっしゃるので、要するに、皆さん翻訳の経験があるということですね。これに関しても、頷けることがあります。シェイクスピア戯曲の翻訳で有名な松岡和子さんのインタヴューで、翻訳者は一語一語訳す必要があるため、飛ばし読みができず、どんな言葉も理解していなければならない。そのために、原書をノートに書き写し、書き手であるシェイクスピアの気持ちになって日本語訳を考える、という趣旨のことを述べられていました。(原文は上記リンク☝をご参照ください。)
同じことが、通訳作業にも言えそうです。発表者の一人、Yvonne Simpson氏はシアトル地域の公立病院(Harborview Medical Center)の通訳サービス部の責任者を務めておられます。救急で運ばれてくる患者は、事故で負傷していたり、切迫流産の危険があったり、重篤な状況に置かれていることが、日常茶飯事だそうです。そんな時、医学的に適切な処方をするためには、患者の声を正確に代弁する('to be the voice')必要があり、間違いが許されない、ということでした。そして、大学時代に社会言語学を学び、翻訳者として言語と文化との関りを扱った経験が、話者の伝えるメッセージを汲み取る作業に生かされているようです。
次に、翻訳者・通訳者と教育の場との関連について。先述の通り、今回の発表者は英語(あるいはスペイン語)を第二言語として習得した後、通訳・翻訳者として成功された方々です。したがって、専門的訓練ももちろん重要であるが、その前段階として英語関連分野での高等教育を受けた経験の重要性を、皆さん声を揃えて訴えておられました。中でもトルコ語通訳者のYasemin Alptekin氏は、トルコに在住していらした際には英語を教え、渡米してからは法律や医学関連の実務翻訳を経たのち、翻訳理論について大学で教えられるようになったようです。しかし、通訳にしても翻訳にしても、言葉を扱う仕事であるため、学生側が教師に対して理想のモデル像を描くことになるため、注意しなければいけない、とおっしゃっていました。これは、通訳あるいは翻訳者が、自己の存在を抑えた立場に留まるべきか、個性を出していくかという問いとも関連している、とのこと。
一方、訳者の個性という点について、児童書などを多数翻訳されているMia Spangenberg氏は、常に質のよい翻訳を世に送り続けることで、出版社から認められる必要がある。また、文芸翻訳の場合は、自分が何を訳したいかも大事だが、読者からのニーズで何を読みたがっているかということを商業的成功のために考えなければならない。そのためには、常にアンテナを張り、世の中の動きをキャッチすること。そして、自ら売り込みのために、ツイッターなどのソーシャルネットワークを活用して、声を掛けて貰える状態にしておく必要がある、との厳しい競争社会の現実も話されていました。
他にも様々なトピックでのディスカッションが進み、最後に、機械翻訳の急進歩によって翻訳・通訳者の存在は危うくなったか、という問いに関しては、意外にも全員が危惧していないとの返答でした。シアトル地域での高等裁判所で通訳サービスの責任者を務めるChris Kunej氏は、我々が生きている間は、まだまだ機械が追いつけるレベルではない、と力強く語っていました。理由としては、機械翻訳は間違いだらけで、とんちんかんな訳を出してくる。YouTubeでの英語から英語への自動字幕機械でも、そもそも人間が発した単語を聞き分けられていない。一方、プロの通訳者とは、どこまで瞬時に正確な訳ができるかに掛かっているということで、毎日200件近い依頼に対して170言語を超える通訳者を手配してきた、マネージャーとしての経験による自負が垣間見えました。
私の個人的な印象では、GoogleとYouTubeの英語から日本語への自動翻訳に限って言うと、数年前までは、語順も訳語もたしかに間違いだらけで日本語になっておらず、まったく読めたものではないという混とんとした状態であったのが、現在は、かなり大意をとらえた文章が提示されるようになってきていて、機械の目覚ましい進歩に、少し戸惑っているところです。英国サリー大学(University of Surrey)で翻訳研究の博士課程を修了した友人(先のロシア語翻訳者とは別)の話では、現在、英語圏で商業翻訳の依頼が来る場合、翻訳のためのソフトウェアを使う。すでに誰かが翻訳したことがある単語には、その訳語が自動的に充てがわれる。翻訳者に課せられた仕事は、まだ一度も翻訳されたことがない語、あるいは今までの訳語では文脈的に通じない場合に、新しい訳語を与えることである、と説明していました。こうやって、人間が翻訳した訳語を、翻訳機械がどんどん吸収していき、巨大なデータベースを作り上げているのです。
日本語は、英語の「主語+述語+目的語」といった構文からも、文法の点でもまったく異なる別の言語族に属するため、機械翻訳であれ人間が訳した場合であれ、原文と日本語訳との差異が大きくて当然です。しかし、英語と同じインド・ヨーロッパ語族に属するクロアチア語を母国語とするKunej氏と、やはり同じ語族のスペイン語やドイツ語、フィンランド語を操る他の発表者たちが、機械翻訳では無理。そして、翻訳者・通訳者養成のためのコースを新たに開設することに意義あり、と結論づけたことは、常に新しいIT技術に追い付いていく必要があるコロナ時代に、頼もしい気がしました。
とは言え、Yvonne Simpson氏の18言語に対応する医療通訳チームでは、病院に常駐する通訳者と、オンラインで遠隔サポートをする通訳者とがいるそうですので、人と人が直接かかわる通訳業界でも、IT化の波に無関心ではいられない現状があるようです。今回の大会、現役の翻訳者と通訳者が集まり、それぞれの分野や立場に課せられた任務についての興味深い話を聞くことができ、刺激になりました。近年は、専門分野(英文学)に関する学会への参加が中心となり、周辺分野、あるいは異なる分野の会合へ参加する時間が取れなくなっていました。同じ聴衆者の立場でも、ビデオ録画されたものを一人で「観る」のと、今回のように友人とリアルタイムで「参加」し、質疑応答など発表者と関わる時間が設けられているのが、オンライン会議のダイナミズムです。シアトルまで旅して本当によかった、と心地よい余韻が残る会となりました。
(文責©H.Shimazaki)
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